当研究所所長・木下祐也の論文「系図系譜学の理論体系構築のための試論(10)――用語論(5)――」が、学術雑誌『系図系譜学論究』第1巻第10号に掲載されました。
論文情報
- タイトル: 系図系譜学の理論体系構築のための試論(10)――用語論(5)――
- 著者: 木下祐也
- 掲載誌: 『系図系譜学論究』第1巻第10号
- 発行: 家系研究協議会
- DOI: https://doi.org/10.69352/keiron.1.10_1
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【研究論文】
系図系譜学の理論体系構築のための試論(10)
――用語論(5)――
木下 祐也
目 次
(イ)「史実」の語の用例分析と「歴史的事実」の語との関係 14
(iii)小田中直樹のいう「歴史上の事実」及び前川一郎のいう「歴史的事実」の分析 15
(iv)論者の確信度を適切に表示する慣行の欠缺、読者との認識の乖離 19
類型②:ある学問分野の参照先の独立した学問分野(独立関係) 22
(iv)補助学としてリストアップされることによって生ずる利害 26
(5)文書上の記載の有無を表す語としての「見える」「見えない」 29
禁止用語・表現
ここでは、先行研究に頻繁に登場するものの、検討の結果、系図系譜学では採用すべきでない語や使用すべきでないと判断した使用禁止語について、その理由とともに列挙する。
(1)史料及び傍証
ア 問題の所在
伝統的系譜学では、「史料」や「傍証」の語が用いられており、これらは歴史学・史料学の用語を手本としているものと解されるところ、学際的学問分野としての系図系譜学においても「史料」や「傍証」の語を採用すべきかが問題となる。
なお、「史料論」の語は、特定の史料の研究等を指すため、ここでは、法学における証拠論に相当する歴史学・史料学における概念群(史料、傍証、一次史料、二次史料、史料批判、外的批判、内的批判など)を「史料関連概念」と称するものとする。
イ 歴史学における定義
(ア)歴史学専用概念
「史料」という用語の定義は、基本的には「歴史学における証拠」あるいは「歴史学研究の材料・素材」として歴史学において定説となっていることが認められる。いずれの定義であっても「歴史学」に限定する文言がある以上、「史料」の語が歴史学専用の用語であることは明白であって、そうであることに他の解釈の余地は存在しない。
他方、系図系譜学と歴史学は相互に独立しつつも補完的な立ち位置にあるというだけであり、系図系譜学が歴史学に一方的に従属するような関係あるいは歴史学の一分野という関係ではなく、歴史学が系図系譜学を包含・支配・規律するような関係ではない。
したがって、系図系譜学においてこれを使用することは「史料」の定義に一義的に反する。
なお、史料学については、歴史学でないのにこの「史料」の語を学問分野名にしているものの、「歴史学における証拠ないし材料・素材たる史料そのものを学問対象とする学問分野」と解することができるため、矛盾はない。
(イ)全体集合への無自覚
小島道裕は、「人間が過去に関わってきたものはすべて史料である、史料になりうる、といえます。一見歴史と関わりそうにないものも、潜在的にはすべて史料であり、史料として使われるのを待っている、ともいえると思います。あらゆるものが史料であり、」と述べており、池上俊一も同様に「文書以外にあらゆるモノが史料と考えられるようになり、その種類と範囲が事実上無限大になった」と述べている。
そのため、歴史学者には「あらゆるものが史料」であるという認識が普及しているものと認められる。
しかし、「あらゆるものが史料」であるとすると、「史料」の概念は全体集合であるということになるから、「史料」という概念自体の存在意義がなくなる。
ウ 恣意的運用
(ア)恣意的な時間的範囲の限定
「史料=証拠/研究素材」であるなら遠い過去の文書に限定されないはずであり、「史料」の語は、現在の直前までをその語義の時間的範囲とする見解もあるが、実際には、歴史学者にとっても大昔のものだけを史料と呼称して、最近のものを含めていないようであるし、非史学徒にとっても、江戸時代以前の古文書というイメージである。例えば、松沢裕作も、昨日の出来事だと仮定した場合には「証拠」といい、百年以上前だと仮定した場合には「史料」といっているから、最近の出来事には「史料」よりも「証拠」の語がしっくりくると考えているものと解される。
(イ)二次史料という区分の恣意性
歴史学・史料学では、一次史料と二次史料の2つに区分することが一般的であり、前者は、ある事象に直接関った当事者が事象の発生と同じ時期に作成したものをいうのに対し、後者は、直接経験していない第三者などが一次史料などを元に後年まとめたものをいうようである。その上で、系図譜は二次史料に該当するとされてきた。
しかし、系図譜は、系図譜作成者と同時代に生存していた人物部分については前者に該当し、それ以前の人物部分については後者に該当するという特質があるため、前者の部分と系図譜を二次史料とする分類は矛盾するし、系図譜作成者と同時代に生存していた人物部分を無視し、それ以前が大部分であるということを理由として二次史料と分類しているのであれば、事実認識の精度が低いといわざるをえない。この点について伝統的系譜学者はその矛盾を指摘すべきであったが、誰もしていないようである。
他方で、明治期以降の時期に一次史料などを元にした歴史学の研究書・論文は、定義上は二次史料に含まれそうであるのに二次史料とは区分されないようである。編纂物も当時なりのやり方で調査・記録ないし研究されたものであると解されるにもかかわらず、明治以降の歴史学論文と江戸時代以前の編纂物とを連続的なものと捉えない理由が明らかではない。そうすると、実質的には「古ければ二次史料、新しければ研究」というような恣意的な線引きをしているものと解さざるをえない。
(ウ)「歴史学研究の材料・素材」派の運用上の矛盾
証拠とは、特定の事実の存否を確定するための根拠となる資料をいい、要証事実が特定されて初めて何が証拠たりえるかの議論をすることができる相対的概念である(方法論通則序論参照)。
「歴史学研究の材料・素材」という定義を採用する立場では、要証事実が特定されその証拠たりえるか以前の段階を指すことはできるが、要証事実が特定され、それを証明するための証拠の意味で「史料」の語を用いることはできない。
そのため、この立場に立つ場合は、事実を認定するために、「証拠」の語を用いるか、証拠を指す別の用語を策定する必要がある。しかし、この立場に立つ学者たちは、「証拠」又は証拠を指す別の用語を用いるわけではなく、結局、「証拠」の意味で「史料」の語を用いているという矛盾がある。
そうすると、歴史学・史料学の「史料」概念は、①要証事実が確定した後に証拠として機能するものと、②問い・仮説すら定まっていない収集段階における歴史研究の端緒、研究テーマの着想又はそれらの修正のための素材になりうるものの総体とを包摂したものであり、伝統的系譜学者や歴史学者・史料学者はこれらを区別せず文脈次第で混用しているということができ、そのような用語運用は極めて紛らわしく、精緻化原則及び審査可能性原則に違反する。
エ 史料関連概念の致命的未発達
方法論通則序論において述べたとおり、法学の証拠論と比較して史料関連概念は致命的に未発達であるというべきである。そこで、そのような史料関連概念群を系図系譜学の用語として採用した場合、いかなる影響が生じるかが問題となる。
要証事実概念及び立証趣旨概念を欠ことは、何を立証しようとしているのかという推認構造の起点が存在しないということであるから、その後の証拠評価も推論規則の適用もすべて論理が繋がらず、感覚的・場当たり的な事実認定をすることになる。
史料関連概念群においては、直接証拠と間接証拠の区別、間接事実と間接証拠の区別、主要事実と補助事実の区別、増強証拠・弾劾証拠・回復証拠の区別といった機能的分類が存在しない。系図系譜学において史料関連概念を採用すれば、これらの機能的分類なしに証拠を扱うことになるため、ある証拠が要証事実に対して直接的に作用するのか、間接的に作用するのか、他の証拠の信用性を補強・弾劾するに過ぎないのかを区別することができず、論証及び審査の精度を大幅に低下させる。
史料関連概念群における信用性評価は、一次史料・二次史料の区分、及び外的批判・内的批判という枠組みがあるだけで、伝聞法則のような立証趣旨に応じた細やかな信用性評価基準を欠くため、執筆者の感覚的に強く依存し、かつ、審査可能性原則に反することになる。
したがって、史料関連概念は極めて未熟というべきであって、「史料」の語を採用するとすれば、このような稚拙な史料関連概念に引きずられ、論証の精度と審査可能性の双方を著しく損ない、研究の質を大幅に低下させることになる。
オ 「証拠」概念の優位性
(ア)問題の所在
ここで仮に「史料」の語を採用しないものとすると、代替語としては「証拠」を用いることが考えられるところ、「史料」の語と比較して「証拠」の語がどのような特質を有するかが問題となる。
(イ)時期的中立性
特定の時期に特有の用語でなく、学問分野内を通じて一般に用いる用語の場合は、時期的な中立性を有するべきである。
非史学徒にとっては、「史料」といえば文書というイメージがあり、もっといえば大昔の文書を指し、物品や最近の文書は含まれないというイメージが一般的である。だからこそ、歴史学を専攻してこなかった伝統的系譜学者にとっては、大昔の文書を根拠に論じる場合には当該文書を「史料」と呼称し、比較的最近の文書に言及する場合は「資料」等の語を用いているものと認められる。すなわち、「史料」の語は、史学徒であれば最近の過去のものまで含むと理解していても、他分野出身者にとっては、成立時期が遠い過去の文書に限定される。
これに対し、「証拠」の語であれば、刑事ドラマ等の知識が普及しているために、特に説明をしなくても写真・動画や録音、ゲソ痕、指紋、DNA鑑定など基本的な証拠たりえるものを誰でも連想でき、証拠たりえるものの時期的範囲について限定されることはない。
したがって、「証拠」の語には、時期的中立性が認められる。
なお、系図系譜研究は、最近の戸籍謄本はもとより現在生存している人の供述やDNA解析などをも分析対象とするものであって、最近の戸籍を史料と呼ぶことは不自然であり、証拠と呼ぶのが自然である。
(ウ)学際的通用力
系図系譜学は、多くの学問分野との学際的アプローチを採用し、学際的協働を想定しているから、学問分野内を通じて一般に用いる用語は、できるかぎり学際的に通用するものであるべきである。
その点、社会科学や自然科学全般において、「証拠」の語は広く用いられているのみならず、そもそも「証拠」の語は、日常語に含まれており、報道や刑事ドラマ等でも頻繁に登場することからしても、法学の証拠論における「物証」「書証」「直接証拠」「間接証拠」「消極証拠」「弾劾証拠」「証拠調べ」といった証拠の種類・区別・吟味などの概念についても、他分野出身者が字面から直感的にそれらの意味を理解しやすい。史学徒にとっても、「史料」の語が「歴史学における証拠」と定義されてきた以上、「証拠」と称しても差し支えないはずである。
これに対し、史料関連概念における「一次史料」「二次史料」「傍証」「史料批判」「外的批判」「内的批判」の語は、非史学系研究者には直感的に意味を理解しにくいのみならず、語義と解説を探そうにも、それを明快かつ詳細に解説した書籍が存在しないか、少なくとも容易には発見できないのだから、学際的通用力は全く認められない。
実際、他分野からの転向者の多いアメリカのgenealogy業界では、史料(Historical materials)ではなく、証拠(proof又はevidence)の語が専ら用いられている。
これに対し、イにおいて「史料」の語は歴史学専用概念であると論じたのだから、「要証事実の存否に関して裁判所が判断を下す根拠となる資料」である「証拠」の語は、「裁判所が」とある以上、訴訟専用概念だと反論する者もいるかもしれない。しかし、「史料」の場合は、「歴史学における証拠」あるいは「歴史学研究の材料・素材」であって、前者から「歴史学」を除いたら、ただの「証拠」となるのに対し、この「裁判所が」という文言は、削除しても、あるいは「研究者が」に言い換えても、推認構造には何ら変更が生じない。また、「歴史学研究の材料・素材」から「歴史学」を除いた「研究の材料・素材」は、確かに一見学際的通用性を有するようにも思えるけれども、この意味で「史料」の語を用い、かつ「証拠」の語を採用しないとすると、根拠を呼称する語を別途用意しなければならないが、「証拠」以外にそのような語は観念できず、造語せざるをえなくなる。「証拠」の語に学際的通用力があることは上述のとおりであるが、「証拠」の代わりの造語には学際的通用力は全くない。そうすると、「史料」を歴史学専用概念であると論じたのとは、全く異なる帰結となる。
したがって、「証拠」の語には、高度の学際的通用力が認められる。
(エ)機能明確性
「史料」の場合は、非史学徒は一般的語義としての「古文書」をイメージしがちであるし、歴史学者自身も、「現代歴史学は、文献史料中心主義から徐々に脱皮しつつあり、」「歴史家のそうした文献史料至上主義的な姿勢に、根本的な疑義と批判が突きつけられているのである。」という状況だったのだから、従前は「史料=古文書、古記録等」というイメージが強かったものと認められる。そうであるからこそ、「史料とは何か」「何が史料たり得るのか」「植物・動物・伝承は史料か」というような解説までが未だになされるものと考えられる。
これに対し、「証拠」の語であれば、自己の主張の根拠となるもの、ないし、反対説への反論の根拠となるものを指すことを直感的に理解できるため、「何が史料たり得るのか」というような解説が不要であって、「史料」という余計な概念を挟まずにシンプルに「証拠」を探して調べれば済む。
(オ)同音異義語の抑制
学術論文を含むコミュニケーションにおいては、できるかぎり混同を避けるべきである。
学術研究においては、いわゆる参考文献のような「資料」も「しりょう」と読むし、しかも系図系譜学においては、DNA解析も方法論に含まれ、その「試料」も「しりょう」と読むため、「史料」(しりょう)の語を採用した場合は3つの同音異義語があることになって、極めて紛らわしい。これに対し、「史料」の語を用いず「証拠」(しょうこ)の語を採用すれば、「しりょう」と読む同音異義語を2つまでに抑えることができる。
(カ)理論の発展性
理論的に全く発展しそうにない史料関連概念とは異なり、「証拠」の語を採用し、それに附随して法学の証拠論を参照するものとすれば、絶対数の少ない系図系譜学者によって証拠に関する理論が研究されるのみならず、絶対数の極めて多い法学者による証拠論の最新の研究成果を反映させることができるし、それを前提とする事実認定論とも容易に接続できる。
特に、法学の証拠論の場合は、証拠論に関する論文も頻繁に発表され、基本書が順次発表・改訂されており、充実していることから、入門者向けの解説書や証拠論を発展させるための参考文献に困ることがない。対照的に、史料関連概念は、これと異なり、ほとんどが個別史料の研究であって、史料関連概念に関する解説書は、小島道裕『「史料学」講義 歴史は何から分かるのだろう』吉川弘文館(2024年)くらいであり、東京大学教養学部歴史学部会編『史料学入門』岩波書店(2006年)も、タイトルとは異なって個別史料の実例解説書に過ぎず、それ以前のものとなると戦前の概説書など古いものしかないから、入門者や理論研究者にとっては至極不便である。
もちろん、法学の証拠論には、違法収集証拠排除法則のような、系図系譜学に反映させる必要のないものも存在するが、証拠の分類をはじめとする大部分は、実際には法学に限定されず汎用性の高いものであるから、基本的に法学の証拠論を参照することに問題はない。
したがって、「証拠」の語には、高度の理論の発展性が認められる。
なお、法学と系図系譜学の親和性の高さについては、方法論通則において詳述する。
(キ)小括
よって、「証拠」の語は、時期的中立性、学際的通用力、機能明確性、同音異義語の抑制、理論の発展性の各性質及び機能があることから、「史料」に対する高度の優位性が認められる。
カ 事実状態の保護の要否
(ア)問題の所在
「史料」及び「傍証」の語には以上のような瑕疵が存在するところ、伝統的系譜学論文においては、通常、「史料」や「傍証」の語が借用されているという事実状態に鑑みて、それでもなお使用を許容すべきか、すなわち当該事実状態を保護すべきかが問題となる。
(イ)判断基準
事実状態を保護すべきかを判断するにあたっては、まず、当該事実状態が継続している理由及び当該事実状態を継続させた場合に生じた利益の内容及び性質を考慮した上で、当該事実状態を保護しないとした場合に喪失する利益の性質、内容並びに発生する支障の程度、及び当該事実状態を保護するとした場合に喪失する利益の性質、内容並びに発生する支障の程度など諸般の事情を総合的に比較衡量して、当該事実状態を継続させることに学術的合理性が認められるかどうかによって決すべきである。
(ウ)適用
伝統的系譜学論文における「史料」の語は、実質的には「古文書」又は「証拠」を慣行として言い換えたものに過ぎず、また「傍証」の語も「間接的な証拠」や「補強的な証拠」というような意味で用いられているに過ぎず、まともな証拠に関する理論としての史料関連概念が存在しない以上、いずれも理論的な必要性から用いているわけではない。むしろ、使用箇所ごとに適宜「古文書」又は「証拠」などと書き分けなければ、精緻化原則及び審査可能性原則に違反する。さらに、「史料」や「傍証」の語を借用するということは歴史学・史料学の未発達な史料関連概念の影響を受け続けることになる。
また、先行研究を調べる際に大量に「史料」及び「傍証」の語が使われている点については、先行研究との接続ないし統一性が保たれるものの、結局は各「史料」や「傍証」の語が証拠候補としての古文書を指すのか、それとも直接証拠、弾劾証拠あるいはそれ以外のいずれかの証拠分類を指すのかを読者が都度判定しなければならず、「史料」及び「傍証」の語の採否にかかわらず、違いはない。そもそも系図系譜研究は、現代語で記載されていない文献も頻繁に参照する以上、過去の文献との用語の断絶は受忍しなければならない特性を有するのに対し、「史料」及び「傍証」の語を今後も使用するとした場合は、将来的にも都度判定をする対象がさらに増え続けることになって学術経済に反するから、むしろ将来のそうした判定の煩を防止する高度の必要性が認められる。そうすると、当該事実状態を保護すべき利益よりも上記の害悪の発生を防止する必要性の方が著しく大きいといわざるをえない。
これに対し、法学の証拠論に倣って史料関連概念を再定義し、「直接史料」「間接傍証」「増強傍証」などの造語をした上で整理すれば用語の断然もなく「史料」「傍証」の語を使用できるのではないかとの反論が考えられる。しかし、「直接史料」「間接傍証」「増強傍証」などの造語をしたところで、それらは従前の「史料」「傍証」の語義とは異なるのだから、結局は語義が断絶しており、むしろ字面としては従前の文字を使用しているのであるから、なおのこと極めて紛らわしく、反って判読の難易度が上がる。また、「直接史料」「間接傍証」「増強傍証」などの定義が法学における「直接証拠」「間接証拠」「増強証拠」などと一致しているのであれば、法学との共通理解のためにも、既に確立された法学用語を使用するのが合理的である。そして、「史料」「傍証」の語の続行を許容すれば、歴史学・史料学との接続を重視したり、あるいは細かい分類を面倒に思ったりして従前の語義に回帰しようとする者が現れることも予想される。また、仮に、史料関連概念をカスタマイズして法学の証拠論並みに用語を精緻化し、「消極証拠」と「史料」を折衷して「消極史料」などという造語をしたとしても、それを歴史学・史料学・法学出身者が許容することは考えにくく、学際的通用力は生じないというべきである。したがって、史料関連概念を再定義し造語するなどして整理する案は、合理性を欠き、採用することができない。
もっとも、先行研究又は参考文献において「史料」及び「傍証」の語が用いられていることがあり、それについては、批判ないし考察の対象となる文として、又は出典に関する情報の一部(例『〇〇市史 史料編』)として、「史料」及び「傍証」の語を記載する必要性又は相当性が認められる。そこで、引用又は出典記載をする必要がある場合にのみ「史料」及び「傍証」の語を転記できるものとすべきであり、かつ、それで足りる。
(エ)小括
したがって、伝統的系譜学論文において「史料」及び「傍証」の語が一般的に用いられているからといって、系図系譜学においてはその使用を許容することはできず、引用又は出典記載をする場合に限って転記できるものとすべきである。
キ 結論
以上のとおり、歴史学・史料学の史料関連概念は、明確に法学の証拠論に比べて著しく未発達であり、古文書等に特有の知見を除き、下位互換であるといわざるをえず、これを系図系譜学の証拠論として採用すれば、系図系譜学の研究を著しく停滞させることになる高度の蓋然性が認められるから、系図系譜学の証拠論として、これを採用することは到底できない。
よって、系図系譜学においては、引用又は出典記載をする場合を除き、「史料」及び「傍証」の語の使用を禁止するものとする。
なお、この禁止及び3(1)ウにおける系図・系譜の総称である「系図譜」の策定に伴い、「系図史料(類)」「系譜史料(類)」の使用も、引用又は出典記載をする場合を除いて禁止され、「系図譜史料(類)」というよな造語も禁止される。
(2)史実
ア 問題の所在
伝統的系譜学論文においては、「史実」の語が頻繁に用いられるところ、系図系譜学においても「史実」の語を用いるべきか、「事実」の語よりも「史実」の語を用いるべきかが問題となる。
イ 定義
(ア)「史実」の定義の欠缺
(i)歴史学者による定義
「史実」とは、歴史学者による定義ないしそれに準ずる説明としては、今井登志喜の「歴史的事象」と小田中直樹の「歴史上の事実」しか見当たらなかった。
(ii)「歴史的」及び「歴史上」の語義
しかし、「歴史的」及び「歴史上」の語が何を指すのか判然としないため、それらの語義が問題となる。
歴史学者や歴史学辞典は、管見の限り、「歴史的」及び「歴史上」を定義していない。
念のため、一般的な国語辞典に当たると、「歴史的」については、「①歴史に関するさま、歴史に基づくさま、②歴史に残るほど重大なさま、画期的なさま」と定義され、「歴史上」については、かろうじて『日本国語大辞典』が「歴史の範囲であること。歴史として明らかであったり、特に認識されたりするような範疇にあること。歴史の流れの上。史上。」、『大辞林』が「歴史的にみること。歴史という観点からみること。」と定義されている。
しかし、「歴史的」の語義①及び語義②並びに「歴史上」の語義については「歴史」の語義がどのような範囲・範疇なのかが判然としないため、「歴史的」及び「歴史上」の語義も不明である。また、「歴史的」の語義③によって「歴史的事象」を解釈する場合、「歴史的」の語義が単に過去に限定するに過ぎなくなるため、「歴史的事象」は「過去の事象」と同義となって「歴史的」という限定が無意味となる。
(iii)「歴史」の語義
そこで、「歴史」の語義が問題となる。
『歴史とは何か』と題する歴史学者等による書籍は多数あるものの、過去の出来事と過去に関する記述の2義があるとする見解(以下「二義説」という。)、研究プロセスをいうとする見解、過去の出来事をいうとする見解、連続的な現象をいうとする見解、定義不可能とする見解がある。他方、年代記など単に過去の出来事を羅列しただけで歴史家による知的操作のないものは「歴史」ではないという見解もある。
歴史学系の辞典には、管見の限り、「歴史」の項目がない。
定義不可能とする見解については、学者の責務を放棄し、自らの営為が学術研究であることを否定したも同然であって論外である。また、研究プロセスをいうとする見解というのは、それ自体でも常識に反するし、「歴史上の事実」に代入しても「歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセス上の事実」あるいは「現在と過去のあいだの終わりのない対話上の事実」ということになって一般的な「史実」の語義と大きく異なる上、少数説であるから除外される。
過去の出来事をいうとする見解及び連続的な現象をいうとする見解は、二義説のうちの客観的事実に包摂される。しかし、客観的事実全般を「歴史」というのであれば、「歴史上の事実」とは「客観的事実上の事実」となって同語反復であって意味不明となるから、何らかの主観的要素が必要であることになる。
この点、二義説の主観的記述に加えて、歴史家による知的操作を経たもののみを「歴史」とする見解は、主観的要素の関与を主張するものであるところ、これらの見解はいずれも主観的操作の主体を「歴史家」とする。「歴史家」とは一般的には「歴史を研究・記述する者」を意味するのであるから、結局、「歴史」の定義が「歴史を研究・記述する者によって認識・解釈・記述されたものをいう。」となり、同語反復に陥る。
そうすると、定義不可能説を論外として、研究プロセス説及び連続的現象説を除外した上で、残る客観的事実全般説は同語反復により、主観的要素必須説は循環により、いずれも「歴史」の定義として機能しないのであるから、歴史学においては、「歴史」の語についてまともに定義できていないと認められる。
(iv)小括
したがって、歴史学者は、「史実」ないし「歴史」の各語を確定的に定義することができていないといえる。
(イ)「史実」の語の用例分析と「歴史的事実」の語との関係
(i)序
歴史学者による「史実」のまともな定義が存在しないことから、「史実」の語を含む解説文における用例から実質的な定義を分析する。
(ii)山本博文の「史実」の用例
まず、山本博文は、
「歴史研究者は、基本的な手続きとして、ある歴史事象を描き出そうとするときには、関係する史料を探し出し、それを正当に読み解いて「史実」を明らかにし、さらに個々の史実がどのような意味を持つのかを「解釈」し、さらに解釈の集積として、時代像や人物像を「イメージ」します。イメージとは、たとえばある時代を「こういう時代であった」とか、ある人物を「こういう人物であった」などと評価することです。
この「史実→解釈→イメージ」の流れも、裁判を例に取って考えて見ましょう。
まず、犯人の行動などは、目撃者の証言や、犯行現場の指紋などの物証といった証拠に基づいて、時系列を追って事実を認定することになるでしょう。これが「史実」を明らかにすることにあたります。」
と述べていることから、「史実」を「歴史事象ないし時代像や人物像をイメージし解釈するための素材となる時系列上の事実」と位置づけているものと解される。この点、「史実」の語は、二義説にいう客観的事実や過去の出来事をいうとする見解、あるいは連続的な現象をいうとする見解に近い。
(iii)小田中直樹のいう「歴史上の事実」及び前川一郎のいう「歴史的事実」の分析
史実の実質的語義を析出しうる用例として、小田中直樹のいう「歴史上の事実」とさらに前川一郎による解説文における「歴史的事実」を同語だと仮定して分析すると、前川一郎は、史料批判によって事実を抽出した上で、
「得た事実を並べ、そのあいだの因果関係や相互関係を考察したり比較したりしながら、それらの事実がどんな意味をもっているのかを解釈します。たとえば因果関係から歴史の発展の道筋を見出したりして、一定の歴史像を導き出すわけです。
過去の無数の事実は、そんないくつもの手順を経て、ようやく一定の歴史像を構成する「歴史的事実」として示されることになります。」
と述べており、これは山本博文の上記「史実」の位置づけと合致するから、前川一郎のいう「歴史的事実」は、山本博文のいう「史実」と同義であると解すべきである。
そうすると、「歴史的事実」や「歴史上の事実」を略せば「史実」になりえることから、「史実」とは、「歴史上の事実」又は「歴史的事実」の略語であると解される。
(iv)小括
まとめると、「史実」=「歴史上の事実」あるいは「歴史的事実」=「過去の事象ないし時代像や人物像をイメージするためにする解釈の対象となる時系列上の事実」となる。そして、「歴史事象ないし時代像や人物像をイメージする」ことやそのための「解釈」は、上記各歴史学者のいう歴史学の学術的営為を指すことから、「史実」は、歴史学の専用用語であると解すべきである。
(ウ)一般的な国語辞典における語義
(i)「史実」の語義
歴史学者が「史実」ないし「歴史」の定義をまともにしていないことから、念のため、一般的な国語辞典における語義を検討する。
まず、国語辞典における一般的な「史実」の語義は、「①歴史上の事実。②歴史上、実際にあった事柄。」である。
①は小田中直樹の用例と一致しており、②の「歴史上、実際にあった事柄」という語義の場合も、「歴史上」の語義を明らかにする必要があるところ、一般的な国語辞典における「歴史上」の語義は、(ア)(ii)のとおりであり、「歴史」の語義を明らかにする必要がある。
(ii)「歴史」の語義
一般的な国語辞典における「歴史」の定義は、概ね「①過去の人間社会に起こった事象の変遷・発展興亡の経過。また、その記録(ある観点から秩序づけられた記述に基づく記述)。②ある事物・組織・人物などが進展・変化してきた過程。来歴・経歴・沿革。③「歴史学」の略。④学校における歴史教育を内容とする科目。」と整理することができる。
このうち、①については、どの辞典も1義にまとめているものの、経過・過程等そのもの(実体)と、その記録体とによって構成されているところ、それらは性質を異にするものであるから、別の語義として扱うべきである(実体を①’、記録体を⑤とする)。他方で、③び④については、本セクションにおいて論点の趣旨に合致しないから除外するべきである。そうすると、合計3義ということになりそうだが、①’と②は結局は「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程」を指すものと解される。
(iii)検討
以上の一般的な国語辞典における各語義をまとめると、「史実」とは、「①歴史上の事実。②歴史上、実際にあった事柄。」であり、「歴史上」とは、「歴史の範囲であること。歴史として明らかであったり、特に認識されたりするような範疇にあること。歴史の流れの上。史上。」(『日本国語大辞典』)又は「歴史的にみること。歴史という観点からみること。」(『大辞林』)であり、「歴史」とは「①過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程。②①の記録」ということになる。
ここで、「歴史」の語義を「歴史上」に代入すると、❶「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程(の記録)の範囲であること」、❷「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程(の記録)として明らかであったり、特に認識されたりするような範疇にあること」、❸「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程(の記録)の流れの上」、❹「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程(の記録)という観点からみること」となり、それぞれを「史実」の語義に代入する、すなわち、それぞれに「の事実」あるいは「実際にあった事柄」を追加することにより、定義としての妥当性を検討することができる。
まず、❷の「実際にあった事柄」の組み合わせについては、「実際にあった」が客観的存在をいうものであるのに対し、「認識されたりするような範疇にある」は認識主体の主観に依存する主観的要件であって、「認識されていないが実際にあった事柄」が存在しうる以上、「認識されたりするような」と「実際にあった」が矛盾する。さらに、記録体については、「記録として特に認識されたりするような範疇にある事実」「記録として特に認識されたりするような範疇にある実際にあった事柄」という組み合わせが不分明である。
❹も同様に「実際にあった事柄」との組み合わせについては、「事柄が実際にあったか否か」が観点に左右されえない異常、「……過程という観点からみること」という文言が「実際にあった事柄」という客観的文言と矛盾する。記録体についても、「……過程の記録という観点からみた実際にあった事柄」も同様である。
次に、❸については、「過程の流れの上」が比喩的・文芸的表現であり、論理的な限定要件としての明確性を欠く。特に記録体として読んだ場合、「過去の……過程の記録の流れの上の事実」あるいは「……の記録の流れの上の、実際にあった事柄」となり、「記録の流れの上」という表現が何を指示しているか判然とせず、定義として機能しない。
❷・❹の残りの組み合わせ、及び❶の組み合わせについては、一応は意味は通るものの、「過去の事物・人間・組織・社会的事象の変遷変化・進展発展興亡の過程」という限定が、単に「過去の事象」ないし「事実」などというのと比べて何を限定しているのかが不分明である。すなわち、かかる「過程」に何が含まれ何が含まれないかの基準が明確には示されておらず、限定として機能しているようでいて実際には機能していない。かかる「過程」を、おおよそすべての連続する過去の事実をいい、単発的な過去の事実を除外するものと解するとしても、そうであれば、「連続する過去の事実」「一連の過去の事象」とか「単発的でない過去の事実」とでもいえば足りる上、「史実」の実際の使用場面を想起すれば、単発的な過去の事実を指すことも一般的であって、そのような限定は使用実態から乖離していることは明らかである。
(iv)小括
結局、これらは、単に「事実」といえば足りるものに冗長な限定を付加しているだけで、その限定は判断基準としての機能を果たしておらず、「(過去の)事実」と同義か、あるいは不明瞭な限定によって、一部の過去の事実を恣意的に排除しうるものであり、一義明確性に欠けるといわざるをえない。その原因は、思うに、学術用語として統一的に策定されたのではなく、一般的語義として個別に国語辞典に採録されたものだからだと解される。
(エ)小括
以上のとおり、歴史学者は、「史実」の語をまともに定義していないが、「史実」は、実質的には、歴史学の学術的営為の対象としての「過去の事象ないし時代像や人物像をイメージするためにする解釈の対象となる時系列上の事実」をいうものであり、「歴史的事実」、「歴史上の事実」又は「歴史的事象」の略語であって、歴史学の専用用語であると認められる。
ウ 事実状態の保護の要否
(ア)判断基準
以上のような問題点を有する「史実」の語を伝統的系譜学論文においても用いる慣行が認められるところ、そのような事実状態を保護し系図系譜学でも「史実」の語を用いる必要があるかについて(1)キ(イ)の判断基準に基づいて検討する。
(イ)考慮要素の検討
(i)時間的限定性・恣意性
「史実」の語は、上記実質的語義では特に時期的な限定はないものの、使用実態としては「相当に時間的に隔絶した過去の事実」に限定しており、最近の出来事には使用しないという恣意的慣行があることは経験則上明らかである。一貫性を保とうとするなら、最近の出来事についても「史実」を用いるか、大昔の出来事についても「事実」のみを用いるのでなければおかしいから、恣意的運用がなされているといわざるをえない。
これに対し、系図系譜学は、相当に時間的に隔絶した過去の事実のみならず最近の事実も対象とするから、そのような慣行とは相容れない。仮に「史実」の語を採用すれば、どうしても当該慣行を系図系譜学に持ち込まれることを防げず、下記のとおり全く実益がないのに「相当に時間的に隔絶した過去の事実」については「史実」、最近の出来事については「事実」という無意味な用語の使い分けの慣行が生じ、審査可能性原則に違反する。
(ii)学際的通用力
社会科学や自然科学など、歴史学以外の研究者・実務家の参入を促すためには、学際的通用力を有するべきであるが、「史実」の語は、歴史学の専用用語であって、歴史学又はこれに類すると考えられている文脈以外では使用されない以上、学際的通用力を有しないことは明らかである。
(iii)権威的・確定的先入観
「史実」は、実質的に、歴史学の学術的営為の対象としての「歴史事象ないし時代像や人物像をイメージするためにする解釈の対象となる時系列上の事実」である以上、歴史学論文で解釈等を経たものをいい、さらに一般的な国語辞典には「実際にあった事柄」という語義があることから、あたかも「歴史学者による高度に証明済みの確定的事実」であるかのような、歴史学研究によって高度に立証され、反証の余地のない確定的事実であるかのようなニュアンスに加えて、歴史学者による使用と相俟って権威的イメージを伴い、読者が無批判に受容したり、読者がそれに異論を唱えにくい事実上の効果を生じさせ、学問的進展に対する柔軟性を損なう高度の危険性を有する。
すなわち、論者自身が、必ずしも通説や定説に基づいて「史実」の語を用いているとは限らず、自身が常識だと確信する情報を「史実」と称したに過ぎないことも十分にありえるにもかかわらず、参入したばかりの他分野出身の研究者や自家先祖研究者などリテラシーが十分に育っていなかったり比較的従順だったりする読者は、「史実である」との記述を読んだときに「それが間違いのない事実なんだ」と無批判に受け止めて自身の論文に引用する高度の危険がある。
そもそも、高度に証明された事実つまり定説や通説とみられている事実であっても、それが将来において新証拠の発見や分析技術の進展、より妥当な証拠解釈により修正されることがありえる以上、絶対的に確定したものとは言い切れないのに、あたかも確定的事実であるかのような印象を与える語を用いることの害悪は極めて大きいといわざるをえない。
(iv)論者の確信度を適切に表示する慣行の欠缺、読者との認識の乖離
過去の事実を認定する作業においては、学問分野を問わず、ケースバイケースで論者の確信度のグラデーションがあるはずである。
その点、「事実」は、日常語の語義として「~ということは事実である」という、あたかも確定した事実であるかのように思わせる用法も広く認められるものの、「確定的事実」とか「暫定的事実」、「推定的事実」などと修飾語によって確信度を調節することも一般的に行われているから、高度に証明されているかのような付加的ニュアンスを必ずしも帯びているわけではなく、修飾語によって確信度を調節することができる。
他方、「史実」の語の場合について検討すると、小田中直樹が「(絶対的な真実ではないが)その時点でもっとも確からしいことはわかる」と述べており、これは「史実」が絶対的に確定した事実のみを指すものではなく、暫定的なものでありうることを認めていると解されるから、歴史学者自身の認識上も論者の確信度に幅がありえることを認識しているといえる。にもかかわらず、「史実」の語に確信度を表す修飾語を付す慣行がないこともまた明らかである。そのため、「史実」の語は、「事実」とは異なり、同一の語を用いているのに論者ごとに確信度が異なりうるという点で、理解の共有を阻害する高度の危険性を有する。
これを是正するために、「史実」の語に確信度を調節する修飾語を付すという慣行を新たに増やすことが考えられるが、そうするよりも、「事実」の語に一本化した方が認知コストも少ない。
少なくとも、高度に証明された事実である場合には、「確定的事実」といえば直感的にわかりやすいし、あくまで仮説に過ぎない場合には、「仮定的事実」などと複数の確信度に応じた概念を設定して使い分ける方が、字面の対称性・直感的理解可能性ともにより高度である。
(v)事実に対する劣位性ないし下位互換性
「事実」とは、現実に発生した出来事・状態を指し示す最も包括的な概念であって、「史実」の表面的定義にもあるとおり、事実には史実も含まれるという包含関係にある。
「事実」の語は、日常語としても、時間的範囲を限定しないから、時間的限定性・恣意性の問題は生じえないし、②で述べたとおり、「史実」の語に比べて、極めて高度の学際的通用力を有するし、③で述べたとおり、権威に大して中立的な語であるし、④で述べたとおり、修飾語を用いて論者の確信度を表示することも一般的に行われているから、上記「史実」の語のような問題は生じにくい。
(ウ)小括
以上の各点が認められ、利益はほとんど認められないのに対し、害悪が大きいため、当該事実状態を保護することができない。
もっとも、先行研究又は参考文献において「史実」の語が用いられていることがあり、それについては、批判ないし考察の対象となる文として、又は出典に関する情報の一部として、「史実」の語を記載する必要性又は相当性が認められる。そこで、引用又は出典記載をする必要がある場合にのみ「史実」の語を転記できるものとすべきであり、かつ、それで足りる。
エ 結論
よって、系図系譜学においては、引用又は出典記載する場合を除き、「史実」の語の使用を禁止するものとする。
(3)補助学
ア 問題の所在
系図学・系譜学についての説明で、「歴史学の補助学」ないし「歴史補助学」といった用語が使われることがあるところ、この語の字面からすると、系図学・系譜学が歴史学に従属する学問であるかのような印象を生じる。
そこで、この語の語義は何か、さらには今後の使用を許容すべきかが問題となる。
イ 定義
(ア)問題の所在
まず、そもそも「補助学」とは何か、その定義が問題となる。
(イ)定義の整理
「補助学」の語は、専ら歴史学の概説書において言及され、「補助学科」や「歴史補助学」、「補助科学」などとも表現されものの、下記のとおり、論者によって異なる定義がなされている。まず、「知識・技術」(類型①)と 「学問分野」(類型②・類型③)の大きく2つの軸に分類でき、さらに、補助学とされるXと学問分野Y(≒歴史学)との関係で、②独立関係・③従属関係の2つに細分できる。その上で、「補助学」の一つとして「系譜学」が挙げられていることが認められる。
なお、管見の限り、歴史学系の辞典にも国語辞典にも記載はなかった。
また、「補助学」は、原語がドイツ語の「Hilfswissenschaft」(「Hilfs(補助)」と「Wissenschaft(学問・科学)」の合成語)、「Hülfskenntnisse」(「Hülfs(補助)」と「Kenntnisse(知識)」の合成語)、「Hülfsmitteln」(「Hülfs(補助)」と「Mitteln(手段)」の合成語)の各語であり、それぞれ学問分野(Wissenschaft)・知識(Kenntnis)・手段(Mittel)と異なる対象を指称していたものの、ドイツにおいてもそれが混用されるようになった上、日本語訳においては、上記各語が一緒くたにされ、「Hilfswissenschaft」も「Hülfskenntnisse」も「Hülfsmitteln」も、いずれも「補助学」ないし「補助学科」と訳出されることになり、「補助知識」あるいは「補助手段」が捨象されたようである。
類型①:歴史学研究に用いる知見・知識・技術
類型①は、学問体系そのものでなく、史料批判のために用いられる補助知識・技術を指す。池上俊一などがこれを主張している。
池上俊一は、「史料批判をする際に不可欠の技術が、いわゆる歴史補助学と呼ばれてきた諸学である。」といいつつ、「文書以外にあらゆるモノが史料と考えられるようになり、その種類と範囲が事実上無限になったためである。遺物・遺跡(中略)これらすべてが歴史の史料なのであり、そこから適切な情報を呼び出すのに、それぞれの対象におうじた学問分野、ときに化学、生物学、気象学など自然科学系の学問の助けが必要になってきたのである。」と述べており、「自然科学系の学問の助けが必要」という部分を合わせて考慮すれば、自然科学が歴史学に従属する学問分野であるはずがないことは明らかであるから、「補助学」が、歴史学と独立の関係にあるものの、歴史学が助けを請う相手である学問分野というような意味に解される。そうすると、一見類型②のようでもあるが、「補助学」を「史料批判をする際に不可欠の技術」と定義している以上、参照先の学問分野全体を指しているのではなく、あくまで参照先の学問分野の技術面に限定していると解されるため、類型①に該当すると解される。。
関口力は、古代系図に関する論考のサブタイトルを「歴史の一次資料とはいえなくとも、補助学として重要。」とした上で、「あくまで系図は文献に対する補助学として利用されなければならないのである。」と述べていることから、系図譜に記載された情報を補助学的知識の一種であると捉えた上で、系図譜そのものを補助学の一種として位置づけていると解される。そのため、類型①に分類した。
なお、今井登志喜も「歷史學の補助學科といえばいやしくも歴史の研究に役立つ一切の知識が、その役立つ時において補助學科であり」とか「第二の種類はおもに史料の取扱いに必要な技術的知識である」、「史料の取り扱いに關して重要な補助的知識を提供するものである」といっていることから、一見この類型の主張をしているかのようにも解しうるものの、その補助的・技術的知識について「古文書學、古書學、印章學」という学問分野であるかのような呼称をし、それに対置される「第一の種類」について「それぞれ獨立的な科學であり、」というように学問分野であると明記した上で、「これらは大多數獨立的でなく、歷史學に從屬的であるか、もしくは歷史學に交渉してはじめて十分の意義を發揮するものであり、歷史學に對して派生的斷片的」というように独立的でなく従属的であるという性質を認定しているのであるから、実質的には、単なる知識を指すのではなく、従属的な学問分野を指しているものと解すべきである。したがって、今井登志喜は、類型③に属するというべきである。
類型②:ある学問分野の参照先の独立した学問分野(独立関係)
類型②は、ある学問分野Yにとって参照先・補助の役割を果たす別の学問分野Xを指す。すなわち、「補助」は学問の本質でなく、Yの側から見た相対的・機能的ラベルである。何が補助学かは個別具体的な研究対象次第で変動するため、医学などの自然科学を含むあらゆる学問が補助学たりえる。黒板勝美や坪井九馬三、野々村戒三、池上俊一などがこれを主張している。
例えば、 太田亮は、系譜学を
「①氏、字、苗字、稱號等、換言すれば、廣義に於ける氏の變遷と、これに附随する諸事項との研究を對象とする學問であるが、②史學の補助學としての系譜學(中略)③一般史學と離れて、「あらゆる家系、血系を研究し、それを基として、社會變遷の真相を探らんとする學問」とも考へられ、④通俗的には、「家々の系圖を調査する學問」と思はれて居る。
これは純正系譜學と應用系譜學との分岐點で、①と③とは前者、②と④とは後者に属する。」
と位置づけており、「史學の補助學としての系譜學」を「純正系譜學」と区別している。
黒板勝美は、「一體學問といふものは單獨にその物のみ調べて滿足すべきものでなく、必ず之と密接なる關係を有する他の諸學科の助によつていろいろの方面から之を考察しなければならぬ」「醫學の如き、國史學とは交渉がないやうに思われるゝものでも、(中略)場合によりて非常の助力をなすことがある」と述べており、これは学術研究が一般的に他の学問分野の知見を参照することが多く、「補助学」が当該他の学問分野を指しているものと解されるから、この類型に属するものといえる。「すべての學問はみな史學の補助學科」と認定している点には注意が必要である。
増田四郎は、「歴史学に対して直接補助的な地位にある専門諸科学の総称」と定義しつつ、「それはあくまでも歴史学の側からみた補助学の謂であって」と述べていることから、類型②に該当する。
他の類型とは異なり、歴史学の立場からのみ定義せず、相対的な定義をしているのもこの類型の特徴である。例えば、ベルンハイムは、「諸自然科学は歴史の重要な補助学である」と述べた上で、社会学、国民経済学、統計学、人民学、人民誌、政治学、国家学などについて「これら一切の知識分科は、それぞれ独特に、歴史のために一般的補助知識を供する。これらのものもその認識のために歴史の補助を借りているように、史学とはたがいに助け合っているのである」とあることから、一般補助学を「ある学問が知見を参照する他の学問分野」と位置づけているものと解される。そのほか、遅塚忠躬は歴史学と隣接諸科学とはお互いに相手の補助学になるという相互補助関係にあると述べているし、野々村戒三は他の学問分野にとっては歴史学が補助学であると言及したり、ベルンハイムはさらに踏み込んで歴史学は全ての科学の補助学であるとすら述べている。
なお、今井登志喜は、「歷史學の補助學科といえばいやしくも歴史の研究に役立つ一切の知識が、その役立つ時において補助學科であり、各研究項目には各自異つた補助學科が豫想され、研究者は各自の研究題目に従って、それぞれの補助學科的知識を必要とする。」ともいっていることから、一見この類型の主張をしているかのようにも解しうるものの、「第一の種類」である「獨立的な科學」はともかく、「古文書學、古書學、印章學」などの知識については、「歷史學に對して特殊な共通の性質をもつている。それはこれらがまったく歴史研究に従屬的な存在であるか、または歴史認識的要素を有し、いずれも技術的性質を多量にもち、而して直接歷史その者の研究よりもその材料たる史料と關係が深く、その對象の選擇が多くは任意的便宜的である點である。即ちこれらは大多數獨立的でなく、歷史學に從屬的であるか、もしくは歷史學に交渉してはじめて十分の意義を發揮するものであり、歷史學に對して派生的斷片的でその作業は歴史學的である。これらは本質的に歷史學の補助學的性質をもつて存在するものである故に、その意味においてもつとも厳密の補助學科というべく、また一方いずれも史料の取り扱いに關して重要な補助的知識を提供するものである點から、適當には史料學の補助學科と呼ぶべきである。」といっていることから、対等な独立の学問分野を参照するというだけの概念ではないし、少なくとも史料批判について証拠法学の知見を全く参照せず、従属的学問分野についての解説に相当のページ数を充てている以上、真意としては類型③を主張しているものと解すべきである。
類型③:歴史学に従属する学問分野(従属関係)
類型③は、独立性を欠き、史学の手段としてのみ存在する従属的な学問分野を指す。
今井登志喜は、類型②とは別に、哲学、人類学、社会学、法律学等は独立的な科学であって実質的補助学科であるが、史料の取扱いに必要な技術的知識は器械的補助学科であるというフェーダーの区分を引用して、言語学・古書学・古文書学・印章学・古泉学・系譜学・年代学・地理学等を後者に位置づけた上で、後者は「直接歴史その者の研究よりもその材料たる史料と関係が深く(中略)大多数独立的でなく、歴史学に従属的であるか、もしくは歴史学に交渉してはじめて十分の意義を発揮するものであり、歴史学に対して派生的断片的でその作業は歴史学的である」「まったく歴史研究に従屬的な存在」と主張していることから、類型③に該当する定義もしている。
大類伸は、「史學の各部門毎にそれぞれ専門の學問が成立し、史學に對し大なる貢獻をなしつつある、それ等の學問を史學の立場からは補助學(Hilfswissenschaften)と呼んでゐる。」というのであるから、歴史学内の各分野を補助学と称しているものであって、類型③に該当するものと解される。
紫辻俊六は、「近代歴史学の開拓者の一人であった黒板勝美氏は、その著『国史の研究』で歴史学の補助学の一つとして初めて系譜学を提唱された。」などという事実誤認に基づいた上で、「未だに補助学としての方法論や体系化は確立されていない。」と述べていることから、歴史学に従属する学問分野として系譜学を位置づけた上で、方法論や体系が確立したとしてもあくまで補助学であるという立場であるから、類型③に該当する。
ウ 使用の許否
(ア)判断基準
イで明らかになったとおり、「補助学」概念は、主に歴史学の概説書において「系譜学」の説明とともに長らく慣行として紹介文的に記載されてきたものと解される。
そこで、「補助学」概念が系図系譜学にも適用されるかを検討した上で、そのような事実状態を系図系譜学でも保護し、「補助学」の語を採用すべきかについて(1)キ(イ)の判断基準に基づいて検討する。
(イ)「補助学」概念の系図系譜学への適用の可否
(i)すべての学問分野を補助学と称する意味
黒板勝美や池上俊一、ベルンハイムのように「すべての学問分野が補助学となりうる」(類型①及び類型②)というのであれば、全体集合であって、論理的には無意味な概念である。
(ii)系図系譜学の「補助学」非該当性
従来、歴史学において補助学に挙げられてきたのは、歴史学等に強く依存した伝統的系譜学であって、新たに構築された系図系譜学ではない。系図系譜学は、少なくとも用語論や方法論、学問意義論などの学問分野の根幹において、歴史学等を採用せず、法学や政治学等を応用し、独自の意義を見出したものであって、伝統的系譜学とは根本的に異なり、類型③で今井登志喜が挙げた要件を全く満たさないものであるから、系図系譜学の出現は、歴史学概説書の全く想定しえないところである。
そのため、広い意味で系図・系譜を学問対象とする学問分野であるといっても、類型③の「補助学」の射程は到底及ばず、該当しえない。
系図系譜学は、系図系譜研究自体が本来的には歴史学とは異なるものである上、最初から歴史学とは別個独立の学問分野として構築するものであるから、理論体系の内容と無関係に「系譜学」を「歴史学に従属する学問分野」ないし「歴史学から独立した専門分野」とみなす見解とは、完全に相容れない。
(iii)無効な一方的宣言
そもそも学問分野Aが学問分野Bに対して何らかの位置づけをしたところで(一方的宣言)、学問分野Aの外部での学問分野Bの位置づけが決まるはずがなく、学問分野Bその他の学問分野における認識を当該位置づけに合わせる必要性も強制力もない。そしてそれは、学問分野Bの知見や技術等の一部分のみに限定するものであっても同様である。
そのため、「伝統的に歴史学者が歴史学の概説書において系譜学は歴史学の補助学だと位置づけてきたから、系譜学は歴史学の補助学である」などというのは、あくまで「歴史学(ないしその位置づけをした歴史学者)にとっては」という留保付きで、かつ、歴史学の視点でのものと捉えなければならないものである。それを伝統的系譜学や系図系譜学の自己定義に転用することは、独立した学問分野としては他律を認めることとなって自己否定であるし、それが歴史学に権威を感じているからという動機に基づくならば、権威主義に基づく不当な推論であるといわざるをえない。
したがって、学外への拘束力のない一方的宣言(全類型)に系図系譜学が従う必要はない。
(iv)小括
したがって、「補助学」概念は、論理的には、系図系譜学には適用されない。
(ウ)事実状態の保護の要否
(i)学際的通用力の欠如
他の学問分野には現状、「補助学」に相当する概念がないし、各種国語辞典にも、管見の限り、全く記載されておらず、ほとんど歴史学の概説書とそれに影響を受けた又は反発する相手方学問分野の少数の論考でのみ言及されているに過ぎないローカル概念であって、学際的通用力は全く認められない。
特に、長らく補助学としてリストアップされてきた(伝統的)系譜学からみれば歴史学が(伝統的)系譜学の補助学であるはずなのに、(伝統的)系譜学はそのようにとは説明してこなかったのであり、政治学・経済学や医学などの自然科学についても黒板勝美の頃から歴史学概説書においてはその補助学と主張されてきたのに、政治学等には補助学という概念がないのであるから、歴史学のみが一方的に用いていることが明らかである。
(ii)「補助学」概念の衡平性
「補助学」を「歴史学に従属する学問分野」と定義する見解(類型③)は、いわば歴史学中心主義ないし歴史学中華思想とでもいうべきイデオロギーに立つものであり、公平中立かつ論理的であるべき学術研究とは相容れない。
実際、そのような見解に対しては、伝統的系譜学者のみならず古文書学者からも批判が向けられている。
例えば、 これらに対し、Ottokar Lorenzは、「so büßt die Genealogie ebenso wie die Chronologie ihre leitende Stellung mehr und mehr ein und sinkt zur Dienerin, zur Hilfswissenschaft herab.」(こうして系譜学は年代学と同様にその指導的地位を次第に失い、補助学に成り下がる)といっていることから、補助学の語義を従属的な学問分野であると解しており、その上で、「Will man sie als Hilfswissenschaft bezeichnen, so versteht sich dies im weitesten Umfange der Disziplinen des sogenannten Natur- und Geisteslebens.」(系譜学を補助学と呼ぶなら、それはいわゆる自然的生・精神的生に関わるあらゆる学問分野に対する最広義においてである)と述べており、補助学であるとしても、断じて補助学の語義を歴史学との関係に限定されるものではなく、自然科学などが系譜学の知見を参照することがありえるという広い意味で解するべきであると主張することにより、系譜学が歴史学の補助学として扱われることを否定した。
また、佐藤進一は、「古文書学がそれ自身一つの独立した学問とはみなされず、歴史学研究の手段としてのみ意義をもつ学問、したがって歴史学に従属して存在する学問であると考え、そういう意味で、古文書学を歴史学の補助学とよぶ誤解(中略)が生まれ、かつ根強く生き続けている」・「古文書学が歴史学に対して史料批判の方法を提供するということは、決して古文書学が歴史学に従属することを意味しない。」と述べており、補助学概念によって誤解が生じたことを批判している。
(iii)概説書以外での不使用
伝統的系譜学の既存の研究において「補助学」の語が広く用いられているという事実があるのであれば、同語を使用することで、読者が伝統的系譜学の研究と系図系譜学の研究を対照しやすくなるという利益を観念しうるが、そのような事実は全く認められず、歴史学の概説書以外ではほとんど使用されない語であるため、そのような利益は認められない。
(iv)補助学としてリストアップされることによって生ずる利害
およそすべての学問分野が他の学問分野の知見を参照することは標準的な学術的営為として行われているところ、そのうち頻繁に参照することがある学問分野を「補助学」と呼称する理由としては、研究者に対して、他の学問分野における知見を積極的に参照すべきという趣旨で訓示的にリストアップしたことが考えられるが、そうだとしても、かかる趣旨を入門書において注意喚起として記載すれば足りるし、その記載にかかる見出しタイトルが必要だとしても、「補助学」と題する必要はなく、「他の学問分野の知見の参照」などと題すれば足りる。
そもそも歴史学は、(1)で詳述したとおり、その根幹であるはずの証拠からの推認構造を理論化していないというのに、歴史学研究をするに当たって参照すべき他の学問分野の単なるリストについて分類・意義づけをするという不必要な理論化をし、それが歴史学概説書の伝統的・固定的記載事項となるに至ったものであるが、単なる他分野の紹介をする程度に留まり、それが惰性的に続けられることに利益を観念することができない。
却って、リストアップすることにより、それらだけを参照すればよいと短慮したり、多様なジャンルが日夜創出されている常況において、参照先の範囲について不要な事実上の制限を生じるという害悪が生じうる。
系図系譜学においても、多くの他の学問分野のアプローチや知見について活用できるものは活用する学際的学問分野として構築するものであるところ、補助学と称する学問分野群を予めリストアップすると、それ以外の学問分野は参照できないという硬直性を生じかねず不都合である。
(v)誤解発生の蓋然性
他の学問分野に対し、従属的学問分野であるという概念、又はそうであるかのような誤解を生じる蓋然性の高い表現を用いた呼称を用いることは、補助学とされた学問分野の学者に対して失礼であるし、初学者に誤解を与えるという弊害を生じる。すなわち、「補助学」の使用を容認し続ければ、その字面から受け取られうる「歴史学に従属する学問」という誤解が一人歩きしかねないというリスクがある。
例えば、池上俊一は、「「補助学」という呼び方自体ミスリーディングだという人もいる」と指摘している。これがどのような誤解を生じうるかについては、この文面からは明らかではないが、歴史学を補助する学問という文字によって「歴史学に従属する下位の学問分野」という意味に取られかねないという指摘だと思われる。
及川亘は、「このような歴史学や史料編纂の補助学または手段としての古文書学の草創期の目的と位置づけは、長らく古文書学のあり方を規定しつづけ、学問分野として古文書学が名実ともに自立するにはかなりの歳月を要することになる。」といって補助学概念によって生じた弊害を指摘している。
系図系譜研究のほかにも、⑤で言及した古文書学の例もある。
伝統的系譜学は長らく「歴史学の補助学」と説明されてきたことにより、歴史学の一分野であるかのように誤解され、独立性を侵害されてきたのであるから、極めて甚大な被害を蒙っているというべきであり、系図系譜学もそのような系譜学の一端を構成するがためにかかる誤解を受ける高度の蓋然性が認められる。
(vi)小括
以上の各点が認められ、利益はほとんど認められないのに対し、害悪が大きいため、当該事実状態を保護することができない。
もっとも、(伝統的)系譜学が「補助学」に挙げられてきたことは事実であるし、「補助学」の語の使用の不当性を論じることにより不使用を推奨する必要性も認められることから、伝統的系譜学に関する学史の叙述のため、あるいは用語の批難ないし不使用の推奨のために使用することは許容されるべきである。
エ 結論
よって、「補助学」の語の使用は、伝統的系譜学に関する学史を叙述する目的、及びこの語を批難ないし使用しないことを推奨する目的で用いる場合を除き、禁止すべきである。
(4)「嫡流」や「嫡男」の同義語としての「正統」
ア 問題の所在
伝統的系譜学において、「正統」の語が、「嫡流」や「嫡男」といった正統な祭祀承継者を指してしばしば用いられるところ、これを採用すべきかが問題となる。
イ 判断基準
事実状態を系図系譜学でも用いる必要があるかについて(1)キ(イ)の判断基準に基づいて検討する。
ウ 検討
(ア)「正統性」との紛らわしさ
何らかの疑義や紛争があったことを前提として、「正統な後継者」とか「正統な祭祀承継者」とか「正統性のある祭祀承継者」とか「正統性のある嫡流」などという「正統性」を表現すること自体には問題がないが、それを短縮して「正統」というのでは意味が異なってくる。
全く別の「正統性」についての議論をすることも十分あるのだから、これと極めて紛らわしく、誤解の余地のない同義語(しかも本来用いるべき語)があるのに文脈によって判断しなければならないとすると、精緻化原則及び審査可能性原則に違反するし、無用な混乱を避ける高度の必要性がある。
(イ)対義語
さらに、この語が「嫡流」や「嫡男」の同義語として用いられる以上、使用者において本家を「正統」なものであるという意識が働いているものと解される。しかし、そうであるなら、その対義語としての分家は「異端」ということになって、明らかに不当であるし、分家を「異端」と称する使用実態も存在しない。
また、対義概念との不整合は、精緻化原則に違反する。
(ウ)小括
したがって、利益は全く認められず、害悪が大きいため、保護する必要性が認められず、むしろ「正統」の語を使用しないこととすべき高度の必要性が認められる。
エ 結論
よって、系図系譜学においては、「正統な祭祀承継者」という趣旨の語として「正統」の語を使用することを禁止する。
(5)文書上の記載の有無を表す語としての「見える」「見えない」
ア 問題の所在
伝統的系譜学ないし歴史学・史料学論文全般において 「史料に見える」とか「史料上に見えない」などの文書上の記載の有無の意味での「見える」「見えない」の語(以下「本件表現」という。)が特徴的に使用されており、強固に定着しているものと認められる。そこで、系図系譜学論文における表現として本件表現を採用すべきかが問題となる。
なお、(1)のとおり、「史料」の語の使用は禁止されているが、ここでは、最頻出の目的語であり、引用としての使用に当たるため、「史料」の語を用いることがある。
イ 判断基準
本件表現を用いる慣行を保護し、系図系譜学でもこれを用いる必要があるかについて(1)キ(イ)の判断基準に基づいて検討する。
ウ 検討
(ア)事実
本件表現は、文脈上、「当該系図譜・文書上に記載がある」とか「管見の限り、見当たらない」というような意味で用いられる。
国語辞典の「見える」の項目においては、視認を中心とする語義に加えて、本件表現について、「文字に書かれる。書物に載る。」という語義で掲載するものもあるものの、本件表現にかかる語義を掲載しているものは極めて少数であるから、一般的語義とはいえない。
歴史学用語辞典には掲載されていない。
そうすると、国語辞典にも一応載っている語義ではあるものの、「見える」の語は通常、視認の意味で用いられることが明らかである。
(イ)学際的通用力
本件表現を用いる社会科学や自然科学の学問分野は、管見の限り、見当たらないことから、学際的通用力は認められない。
(ウ)一義明確性
「見える」の語に視認の語義が当然に含まれる以上、本件表現には、「当該文書上に記載がある」という客観的事実をいう趣旨の他に、「自分には○○という文字が書かれているように見える」とか「文書を見て回ったが自分には目的の記載があるようには見えなかった」とかいうような文字の読み取りについての主観的認識をいう趣旨でも用いられうるから、そのような主観的認識をいうつもりで書いたものなのか、客観的事実として書いたのかが判然としない。すなわち、「見える」が視認の意味の語として一般的に用いられるため、主観的ニュアンスを排除しきれず、執筆者にとっては客観的事実を述べたつもりでも、主観的認識を述べたものであるという誤解を生じさせかねず、一義明確性に反する。
(エ)代替表現
極少数とはいえ国語辞典にも掲載されている語義ではあるものの、「見える」の語が通常は視認の意味で用いられることが明らかである以上、仮に本件表現を文書上の記載の有無についての用語として採用する場合、主観的認識のニュアンスを排除して一義明確性を満たすために、用語論において、客観的事実としての文書上の記載の有無に限定した定義を定立することが必要不可欠である。
しかし、「見える」を文書上の記載の意味に限定した場合、視認の意味の表現としては一般的な「見える」の語を用いることができなくなるために別の表現を用いなければならないという不都合があるのに対し、文書上の記載の意味の表現としては、上記のとおり、「当該文書上に記載がある」などの代替表現があり、しかもその方が直接的であって、誤解の余地が存在しない。
したがって、そのような定義は、合理性を欠く。
(オ)小括
したがって、学際的通用力もなく、一義明確性に反し、慣行的語義での定義に合理性を欠く以上、利益は認められないのに対し、害悪が大きいため、本件表現にかかる事実状態を保護すべきではない。
もっとも、先行研究又は参考文献において本件表現が用いられていることがあり、それについては、批判ないし考察の対象となる文として、又は出典に関する情報の一部として、本件表現を記載する必要性又は相当性が認められる。そこで、引用又は出典記載をする必要がある場合にのみ本件表現を転記できるものとすべきであり、かつ、それで足りる。
また、「管見の限り」の語は、著者の把握している範囲での主張であることを明示する表現として誤解の余地がないから、その使用を妨げない。
エ 結論
よって、系図系譜学においては、引用又は出典記載する場合を除き、文書上の記載についての語としては本件表現を用いないものとする。また、視認の意味での「見える」を使用することは妨げられない。
(6)文書上に記載があるという意味の「伝える」
ア 問題の所在
伝統的系譜学ないし歴史学・史料学論文全般において 、「系図譜・古文書が○○と伝える」とか「系図譜・古文書に○○と伝える」などという、系図譜や古文書上に記載があるという意味での「伝える」の語(以下「本件表現」という。)が特徴的に使用されており、強固に定着しているものと認められる。そこで、系図系譜学論文における表現として本件表現を採用すべきかが問題となる。
イ 判断基準
本件表現を用いる慣行を保護し、系図系譜学でもこれを用いる必要があるかについて(1)キ(イ)の判断基準に基づいて検討する。
ウ 検討
(ア)事実
本件表現は、文脈上、「当該文書上に○○という記載がある」というような意味で用いられる。
国語辞典の「伝える」の項目においては、視認を中心とする語義に加えて、本件表現について、「伝達する」という語義で掲載するものもあるものの、本件表現にかかる語義を掲載しているものは極めて少数であるから、一般的語義とはいえない。
歴史学用語辞典には掲載されていない。
そうすると、国語辞典にも一応載っている語義ではあるものの、「伝える」の語は通常、伝達の意味で用いられることが明らかである。
(イ)文芸的表現該当性
本件表現は、系図譜や古文書を主語とし、それらが「伝える」というのであるから、系図譜や古文書を擬人化した表現ということができ、文芸的表現に当たり、学術論文が採用すべき表現として適切でない。
(ウ)余分な主観的要素
本件表現には、当該系図譜や古文書の作成者があたかも後世に情報を伝達する目的を有していたかのようなニュアンスを含むため、単に「記載がある」と述べた場合に比べて余分な主観的要素を含んでいるといえる。それに加えて、系図譜はともかく、古文書について本件表現を用いる場合は、当時限りでのみ使用する目的で作成したものがたまたま残留してしまった可能性について理由もなく無視し、根拠もなく作成者が後世に情報を伝達する目的を有していたかのような誤解を生じさせかねない。
これに対し、「当該文書上に○○という記載がある」と記載すれば、余分な主観的要素を含む、誤解のリスクのあるニュアンスを用いずに、客観性を保つことができるのであるから、本件表現を用いる必要性も合理性もない。
(エ)学際的通用力
本件表現を用いる社会科学や自然科学の学問分野は、管見の限り、見当たらないことから、学際的通用力は認められない。
(オ)小括
したがって、「当該文書上に○○という記載がある」という客観的な表現があり、合理性、必要性及び学際的通用力を欠く以上、利益は認められないのに対し、学術研究にとっては不適切な文芸的表現であり、余分な主観的要素を含み、誤解を生じるリスクがあるという点で、害悪が大きいため、本件表現にかかる事実状態を保護すべきではない。
もっとも、先行研究又は参考文献において本件表現が用いられていることがあり、それについては、批判ないし考察の対象となる文として、又は出典に関する情報の一部として、本件表現を記載する必要性又は相当性が認められる。そこで、引用又は出典記載をする必要がある場合にのみ本件表現を転記できるものとすべきであり、かつ、それで足りる。
また、上記はあくまで文書上に記載があるという意味での「伝える」に限ったものであり、口伝・伝承を対象とする「伝える」については、何ら制限を設けるものではない。
エ 結論
よって、系図系譜学においては、引用又は出典記載する場合を除き、「当該文書上に○○という記載がある」ことを意味する語としては本件表現を用いないものとする。また、通常の語義での「伝える」を使用することは妨げられない。

